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藤の屋文具店

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物心二元論

 念、とか霊魂とか、そういうものを信じるだの信じないだのとい
う事が、いろいろと取り沙汰されたりする。霊魂なんてものは無い
んだ、人は死ねばただの生ゴミだ、とか、肉体は死んでも心は残る
のだ~、とか、とかく肉体と精神の関係については、いろんなこと
が言われている。

 唯物論と呼ばれる考え方によれば、この世界の全ての物質は、科
学の法則によって変化していて、すべては法則に従ってのみ動く、
そういうことらしい。突き詰めるなら、我々の意思というものすら、
脳の中の電流の演算の結果であり、それは、生まれつきの素養と、
体験してきたデータの蓄積によって、やはり法則のままに流れてい
く、そういうことになる。
 わかりやすく言うと、我々のいる宇宙の全ては、素粒子と呼ばれ
るつぶつぶが、ビリヤードの玉のように関係しながら動いている状
態であるから、今この瞬間の全ての粒子の位置とエネルギーによっ
て、次の全ての粒子の状態は決まる、そしてそれは永遠に次の瞬間
を決定して行くから、今後の宇宙の全ての物質の変化は、実は最初
の始まりの瞬間に、すでに決定されている、そういうことである。

 つまり、映画が上映されている時、どんなにはらはらどきどきし
ていようが、その映画のストーリィはセリフのひとつひとつ、背景
の木の葉一枚の動きに至るまですでに決定されていて、そこには何
者も干渉できないのと同じように、我々の住む宇宙のすべては、た
ったひとつの未来へ向かって、誰も知らぬ道を進んでいる、という
ことになる。一見、もっともな理屈だ。

 これに対して、物心二元論というものがある。この世界には、物
質と精神のふたつのグループがあって、それぞれが別の法則で変化
し、生き物は、そのふたつを同時に兼ね備えている、そういう考え
方である。必然的に、物質だけの存在と、精神だけの存在というも
のも、あるということになる。
 この考え方だと、我々の意思と行動のあり方を見る限り、精神が
物質である肉体をコントロールしているということになるわけなの
だが、ここでひとつの矛盾が出てくる。それは、物理現象である肉
体の運動に関与する以上、精神には物理的なエネルギーがあるとい
うことになり、それはすなわち、精神は物理法則に支配されるとい
うことになるからである。

 では、物質と精神の二種類のものがこの世界にはあり、なおかつ、
動物の意思のように、精神が肉体を自由に動かすことが可能である
には、どういう仕組みが必要なのだろうか。論理的に考えるならば、
物質の運動において、現在の状態から次の状態に変化する場合に、
いくつかの選択肢のうち、どれが実現してもまったく科学的には等
価である、ようするに、どう動いてもかまわないという状況がなく
てはならない。
 逆に考えるなら、ひとつの原因から複数の結果が考えられる場合、
そのなかの一つを選択するのは、物理法則ではなくて、何かの意志
がそこにあるからであるということになる。

 では、この宇宙、世界の中に、そのような不確定な部分があるか、
ということになると、実はある。それは、物質をどこまでも小さく
分割していった時に出てくるうんと小さな単位物質、素粒子の世界
である。素粒子の世界では、物質は固い殻につつまれた粒ではなく、
ある一定のサイズの空間にエネルギーとして存在し、ある時点では、
その空間の中の一点に質量として存在する。ようするに、エネルギ
ーと物質のふたつの姿を持ち、それぞれの状態ではそれぞれの物理
法則に従うものの、変換して違う状態になる時には、ある一定の範
囲においては因果律の影響をうけない、自由な選択ができるわけだ。

 ここまで考えてくると、新しい世界観のようなものが見えてくる
のだが、それは、エネルギー状態としての世界と、そのエネルギー
が粒子の形をとっている状態の世界が、踏み切りの赤ランプが交互
に点滅するように入れ替わりながら存在を続けていく、そういう世
界の姿である。本体と影のように、ぎちぎちの対応ではなくてゆる
やかな、無関係ではないけど自由度のある相互干渉。




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